ども、お久しぶりです。
オダタクミです。

先日、HPF2013の講評会を終わった。
僕が観劇した高校は全部で10校、そのうち講評したのは8校。
初めての講評ということと時間不足で、少しばかり自分の講評が説明不足だったと思い、改めてここに僕の感想を補足的に書き留めておこうと思う。
そして講評できなかった香ヶ丘リベルテ高校と大谷高校の感想もここに書き記しておく。

今回は前半の5校(関西創価・大阪信愛女学院・清風南海・枚方なぎさ・香ヶ丘リベルテ)について書く。



関西創価高校『なぞとき狂死曲』

まるでミステリィのような密室殺人事件の冒頭で始まるが、すぐにコメディ劇だと分かる。自由奔放は探偵は役には立たず、代わりに助手が事件を解明していく。被害者のヒロインが幽体離脱して現れ、助手とコミュニケーションが取れるので、その時点でこの事件は解決したも同然だ。タイトルには「なぞとき」とあるが、だから実際は家族同士でなぜ殺人に至るかという部分が重要になってくるが、その大事な部分が甘いので全体としてゆるい作品になってしまった。家族を単なるキャラクターとして描くのではなく、もっと人間を描くことができていたら、この作品はもっと魅力的になったかもしれない。「魔法」が使えるという設定も安易に取り入れてしまっているので、物語自体の締りもゆるくなってしまった。演劇という存在が「虚構」という一種の「嘘」で出来ているので、観客にその「嘘」を許容してもらう必要がある。何種類もの質の違うフィクションを重ねるとその「嘘」が観客の許容量を超えて、結果的に冷めてしまう。そのリスクを作家は念頭において作品を創る必要がある。コメディだからといって何をやってもよいわけではない。


大阪信愛女学院『Dear ~「ありがとうを君に」~』

講評会でも述べさせてもらったが、今時の高校生は「死」を身近に感じながら生きているのかとびっくりした。情報社会といわれるようになって随分経つが、その恐ろしさを改めて知ることとなった。新聞部の部室の面々と、そこで昔に自殺した生徒の物語だ。この作品が孕んでいるものは重いのだが、物語自体は緊張感の薄いものになってしまった。理由のひとつは、せっかく作者が「死」に対して向き合おうとしているのに、自分と一番近い存在の新聞部の面々はほとんど幽霊とは絡まない。もうひとつの重要な設定である「施設育ちの子供達」と幽霊との結びつきに固執してしまったからだ。あまりそこは拘らない方が良かったのではないか。新聞部の面々が幽霊に絡まれて、その中で施設育ち少女との繋がりが明らかになっていくという方向の方が緊張感をもてたのではないのだろうか。あと未来からタイムスリップして幽霊が科学的に見える少女が助けにやってくるというのも、いささか場当たり的な気がする。さっきの関西創価でも書いたが、異なるフィクションを一つの作品の中で共存させることは意外と厄介なのだ。


清風南海高校『十七歳の駅』

OGの書いた作品らしい。女子高生の内的世界をシンプルに描けている。無駄に説明がないなだけに演出面では観客に対する配慮が必要になってくる。アンサンブルは非常に美しかったが、現実と妄想の「時間軸」と「空間軸」の提示が甘い。結果として全体としては美しい作品だし何が言いたいかは分かるが、一方で観客を置いてけぼりにするような作品になってしまった。観劇直後は結構刺激的な作品に出会えて感激したのだけど、時間がたって冷静になって思い返すと、直後のドキドキ感が自分でも忘れてしまっている。個々のシーンをもっと丁寧に見せることが出来ていたら、この作品の印象はもっと鮮明になっていたはずである。空間軸の説明を丁寧にする手段のひとつとしては、効果音を使うことである。その場所を示す「音」が聞こえてくるだけで、今どこにいるのかがなんとなく分かる。効果音を適切に使えていない高校が多かった印象が割とあるので、そこを少し丁寧に改善するだけで作品の深みが増す。照明・音響も作品世界を支えているということを忘れないでほしい。


枚方なぎさ高校『監視カメラが忘れたアリア』

鴻上尚史の第三舞台解散後に新たに創った劇団の作品で僕は初見。鴻上尚史らしいテンポある作品だが、照明・音響・映像を駆使した構成なので、のりうちで上演するにはスタッフには荷が重い印象を受けた。俳優は稽古場で散々稽古できるがスタッフはそうはいかないからだ。それが顕著に出てしまった。一つの要因として、キッカケをスタッフ側に委ねてしまっている点が挙げられる。転換で明りが切り替わらないと俳優は動かない。ミスが発生すれば芝居が止まってしまう。大きなミスではなくとも、スタッフが少しキッカケが遅れるだけでその分転換に遅延が発生してしまう。小さな積み重ねが結果的に作品のテンポを致命的に悪くしてしまう。その可能性を演出も俳優も事前に覚悟しておく必要がある。キッカケを役者に渡すことでスタッフの重荷を少しは軽くしてあげることができる。あと少し気になったのだが、主人公の俳優が、まあ一年生だということで仕方ないと思うが、自分が自信のある台詞、もしくは好きな台詞のときだけ声量が上がるという初心者特有の分かりやすい芝居をしていた。これは、早いうちに矯正しておいた方がいいので、ここに記しておく。舞台装置はデザイン面と機能面を兼ね備えた素晴らしい出来栄えだった。この装置は作品世界を立派に支えていた。


香ヶ丘リベルテ高校『裸樹』

観終わった後のやるせない感が一番大きかった。小説も基に脚本が書かれている。過去にいじめの経験のある主人公が、軽音部に入り音楽を通して仲間との絆を深めるといったストーリーだ。舞台で生で演奏する。芝居のラストでバンドが生演奏するのが最大の見せ場になっている。なのに、ベースだけ音が鳴らない。主人公が演奏しているのに、だ。アクシデントなら仕方ないとも思えるのだが、そうではない。別に上手い下手が物語に影響を与えるような作りになっていないので、そこは問題ではない。だけど、「音」自体が聞こえないのは大問題だ。そこまでの演技も結構イイ線いっている。それが最後のクライマックスで積み上げた全てが台無しになってしまう。そういう意味では、これは最初の作品選びの段階で失敗していると言っていい。脚本段階で実現可能か不可能か事前に分かっていたはずだ。楽器も揃えて、そこそこ弾けるように練習もしている。そこまで出来ていながら、最後の一番大事な部分のツメが致命的に甘く、それが作品全体をダメにしてしまった。安易に「やりたい」という気持ちだけでは作品は完成しない。本当に勿体ないと、心底思った。